PCクラブログ

2006年からの日記です。備忘録です。生活に必要な知識、それを実現しょうと試み続けているのが本ブログです。未熟者ですがよろしくお願いします。

昭和の面影

1951年、昭和26年に建てられた、ということは、私が6才の時だ。
当時、町の中心に木造2階建ての大きな建物があり、人々はそれを「クラブ」とよんでいた。
コールタールで塗られた板塀が剥げかかり、窓から中を覗くと真っ暗で、いかにも古かったが
20年に1回、「ごどく」という、大衆演劇の巡業公演が開かれたり、 映画が上映されて
美空ひばりの「りんご追分」とか、ゲーリークーパーの西部劇も見た記憶がある。
地域の学芸会も開かれた。そこが幼稚園だった。

下地町1番組2番組で20数軒あったとしても
同級生が私を含めて3人いたから、
古和全体では40人近くいた。
中にはシーソーがあって、私はそれに乗ってひっくり返り
歯を折った記憶がある。
幼稚園の昼食は粗末なもので
というより何かを食べたという記憶よりも
何やら得体のしれない飲み物、「カイニンソウ」とかいうものを
飲まされたのは覚えている。
脱脂粉乳も私は飲めなかった。喉を通らず吐き出した。
それもあって、体が弱かったのかも知れない。


2階に上がった。
今では、見られない障子戸。手の込んだ作りだ。
「道楽だった・・・」
解体中にその二男さんが述懐していた。
建築もそうだが、当時、白いボート(千鳥)で、颯爽と診療に出かけていて 棚橋のおばやんらは「格好よかった!」と 今でも語り草にしている。 それほど、この家は古和でも別格だったが
今では「クラブ」は壊されて鉄骨の建物に変わり そしてこの「医院」も姿を消すことになる。 浦和3.jpg

 

 

 

浦和4.jpg

二階の西側。
すべて嵌めこみのガラス戸。
ひのきが使われている。節のない木だ。

台風以外は雨戸を閉めることもなく雨ざらしになっているにも拘わらず
60年経つというのに隙間が無ければ歪もない。

床の継ぎ目もしっかりして、べニア板のように歩いてへこんだり、ギシっと音がするわけでもない。固くて丈夫な板だ。

今ではこんな材料はもうないだろうに解体して燃やしてしまうのは何とももったいない。

鴨居とかを5・6本戴くことにした。時間的なこともあり、ノコギリで柱の端から端まで切ることにした。ノコギリの歯の間からヒノキの香りが漂ってくる。木は生きているのだ。


二階の西側。
すべて嵌めこみのガラス戸。
ひのきが使われている。節のない木だ。

台風以外は雨戸を閉めることもなく雨ざらしになっているにも拘わらず60年経つというのに隙間が無ければ歪もない。

床の継ぎ目もしっかりして、べニア板のように歩いてへこんだり、ギシっと音がするわけでもない。固くて丈夫な板だ。

今ではこんな材料はもうないだろうに解体して燃やしてしまうのは何とももったいない。鴨居とかを5・6本戴くことにした。


時間的なこともあり、ノコギリで柱の端から端まで切ることにした。ノコギリの歯の間からヒノキの香りが漂ってくる。木は生きているのだ。

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