PCクラブログ

2006年からの日記です。備忘録です。生活に必要な知識、それを実現しょうと試み続けているのが本ブログです。未熟者ですがよろしくお願いします。

座佐の高(ざさのたか)へ登る

イメージ 1

南伊勢町テクテク会」による「座佐の高」への登山は、5月5日「子どもの日」に行われた。

去年、古和に住んでいるキクヤの友さんという人から、「座佐の池まで山登りに行かんかな?」と誘いを受けていた。それによると、「座佐の高から座佐の池、卵池までの山道を整備したから」ということである。


彼は、60代になってもいつも山を走り回っているくらいの健脚で4年前に有地山の登山整備に誘われて以来、「今度はここに登る」といつも知らせてくれる。座佐の高に登るのは、私はこれが初めてである。


一人では心細いから、山を知り尽くした人たちと登れる機会はなかなかあるものではない。以来テクテク会による古和浦近辺の登山は、私にとっては日常生活で楽しみに一つになった。

三重県でもよく、広報なんかで紹介されているから、ご覧になったかたもいらっしゃるだろうけど「座佐の高」は、今、NHKTVで放映されている「平清盛」の平家の落ち武者が壇の裏の戦いで敗れて流れ着いた砂浜、「座佐の浜」を見下ろす山である。

今日は、その座佐の高(455m)に登り、座佐の浜へ下り、「卵浜」からロッジ新桑へと向かう周回コースである。座佐の高まで455mを一気に登ってゆくと、対岸の天神山の麓に「薄月の池」が姿を見せる。なんとも風流な名前の池だが実際に山から覗くと月が映るらしい。

古和浦から軽四のスズキアルトで棚橋までくると「テクテク」という赤い文字の看板が目に入る。矢印に誘導されて「ロッジ新桑」に向かうと中野さんらが駐車誘導し、広場では参加者受付などすでに十人近くいるだろうか。

 

 

 

イメージ 1
そのうち、私たち参加者はみんな南伊勢町から、そして玉城町、伊勢、津からも車にのってこの新桑の田舎へやってくる。そしてここで午前9時のスタートを待つわけだ。

 

人家、約20軒のこの過疎地に、三重県各地からやって来た40人の山歩き愛好家が
このロッジ新桑の広場に溢れかえることになる。新桑というのは、日本中のどこに行っても見受けられるような過疎の村落で他所者の目から見る限り、これといって目立つものは何もない。


この「ロッジ新桑」の他には集会所があるだけで、他には民家が狭い道路にひっそりと並び、その民家が途切れると姫越山に通じる山道が延びているだけだ。

 

しかし、家の手入れは行き届き、軒下には雨よけの板囲いがあるのが人目を引く。
もし、平家落人伝説の姫越山の登山出発点でなかったらおそらく誰の気にも止まらない
村落としてひっそりとありつづけただろう。

 

私は、姫越山と座佐の高の登山口であるという理由で、2度、この小さい村落に触れる機会をもつことになった。

 


受付では地図と弁当をを受け取った。5万分の1の地図は赤線で行きと帰りのコースが記されている。弁当は古和の古里食堂のちらし寿司と寿し友の大巻き寿司である。
私は今回は後者を選んでいた。

 

キクヤの友さんがいつもの笑顔でやって来た。
他に見慣れた顔も何人かいる。

 

「有地山で一緒でしたね?」
「私は99%参加してるので・・・」
あれからもう4年にもなるが、日焼けした顔は変わらない。

 

「クロさんでしたね?」
「やあ、こんにちは」
「元気そうですねぇ」
「そうでもないんですよ。あそこもここも悪いんだけどね」
そうこうしているうちに広場は多くの人で溢れるほどである。


男女比は半々くらいで、年齢的には20代から80代と思われる男性まで幅広いのと
カラフルな格好をした40代~50代の女性が目立つことだ。

 

「ラジオ体操をしましょう」
会長を取り囲む形で、総勢40人が広がる。両手を広げると五月晴れだ。昨日のような風はなく、いつもの5月の日射しが四方を山に囲まれた100坪ほどの広場の砂地に降り注ぐ。いつもは無音の自然に囲まれた場所にラジオ体操の音だけが広がってゆく。

 

 

イメージ 1
「ではいきましょか・・・」
会長を先頭に総勢40人、一列に歩きだした。

幅1mほどの道を私は列の真ん中あたりにいる。数分歩きだしてまもなく、ある一軒の家の前で列がほぐれた。近づくと、なにやら古井戸の回りに人垣ができている。

 

「今でも使っています。一年中水温は同じです」

 

近寄って石組みの井戸を覗き込んだ。数m下に水面が鈍く光っていた。

 

私は古和の生まれで、中学生の頃には同級生が何人もいたけど今ではみんなここにはいなくなっているし、彼らと生きていた頃には私もまだ幼さすぎて、平家の落ち武者が流れ着いた歴史的、社会的な諸側面を理解するところまではいかなかったけれども、

 

流れ着いた落ち武者たちは、古和の漁師に遠慮して漁業にはつかず塩田で生計を立て始めた、という話は中学の頃、先生から聞いたような気がする。南伊勢には、そういった場所が7カ所か8カ所あり、「窯」と呼ばれているのも。

 

 

 

 

お問い合わせ